沖縄戦終結の日はいつ?6月23日と9月7日の真相と終戦記念日の違い

沖縄戦終結の日はいつ?6月23日と9月7日の真相と終戦記念日の違いについて徹底解説いたします。最新の情報をお届けします。

沖縄戦が他の戦場と決定的に異なる点は、防衛陣地が住民の生活圏と完全に重なり、一般住民を巻き込んだ凄惨な地上戦となったことです。ここであらためて沖縄戦 歴史 経緯 詳細まとめを時系列で振り返ります。

  • 1945年3月26日:米軍が慶良間諸島に上陸。住民の集団自決(強制集団死)が多発。
  • 1945年4月1日:米軍主力が沖縄本島中西部の読谷・嘉手納海岸から上陸を開始。
  • 1945年5月下旬:首里の司令部地下壕を放棄し、日本軍は住民が避難していた南部へ撤退を開始。戦線は極度の混乱へ。
  • 1945年6月18日:米第10軍司令官バックナー中将が前線視察中に戦死。米軍の攻撃がさらに激化。
  • 1945年6月23日:牛島司令官が自決。組織的抵抗が終焉。
  • 1945年9月7日:越来村にて降伏文書調印式が挙行され、全戦闘行動が終結。

沖縄戦における全戦没者は約20万人と推計されていますが、特筆すべきは沖縄戦 民間人 犠牲者数の甚大さです。沖縄県出身の戦没者約12万人のうち、一般県民の死者は約9万4,000人に達し、当時の県民の4人に1人が命を奪われました。

軍医や看護師の補助として動員された「ひめゆり学徒隊」(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)をはじめとする学徒隊の運命も苛烈を極めました。6月18日に突如として出された「解散命令」により、安全な後方部隊を持たない少女たちは、米軍の砲火が飛び交う戦場へ放り出され、多くの尊い命が失われました。現在も摩文仁の丘 最後の激戦地の周辺では、ひめゆり学徒隊 慰霊の碑などを訪れ、鎮魂の祈りを捧げる人々が絶えません。

糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎(いしじ)」には、国籍や軍人・民間人を問わず、沖縄戦で命を落としたすべての戦没者の名が刻まれています。追加刻銘が続けられた結果、最新の平和の礎 刻銘者数は24万人以上(24万2,000人超)に達しており、命の平等を象徴する記念碑として世界的に知られています。

関連記事