なぜ大量出水が?高森湧水トンネル公園の事故の真相と神秘の絶景を徹底解説

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高森湧水トンネル公園が生まれた直接の契機は、昭和の高度経済成長期に国鉄が威信をかけて進めていた「九州中部横断鉄道」の建設事業にあります。熊本側の高森線(現・南阿蘇鉄道)と、宮崎側の高千穂線(後の高千穂鉄道、現在は廃線)を結び、有明海と日向灘を直結する総延長約23kmの壮大な鉄路「高森・高千穂未成線」の計画でした。

1973年(昭和48年)に本格着工された高森トンネル(計画延長6,500m)の掘削工事は、順調に進んでいるかに見えました。しかし、1975年(昭和50年)2月、坑口から約2,055m掘り進んだ地点で運命の瞬間を迎えます。掘削機械が地下の巨大な水脈(高圧帯水層)を直撃し、暗闇の切羽から凄まじい轟音とともに毎分約36トン(ドラム缶約180本分相当)に及ぶ濁流が噴出したのです。

当時の報道記録や工事関係者の手記によれば、トンネル内は一瞬にして川のような激流と化し、作業員たちは命からがら脱出を余儀なくされました。さらに深刻だったのは、トンネル内への出水だけにとどまらず、直上に位置する高森町中心部の水脈が破壊されたことです。町内8カ所以上の湧水池や井戸が瞬く間に干上がり、農地への給水停止や約千世帯に及ぶ深刻な飲料水不足という大混乱を引き起こしました。

国鉄は懸命な止水・水抜き工事を試みたものの、阿蘇の外輪山が蓄える莫大な地下水圧を前に抜本的な封じ込めは不可能と判断されました。折しも国鉄の経営悪化と国鉄再建法の成立が重なり、1980年(昭和55年)に工事は全面凍結、1989年(平成元年)に鉄道敷設計画は正式に断念されるに至りました。鉄道としては「未成線」という悲劇の結末を迎えましたが、町はこの豊富な湧水資源を逆手に取り、1994年(平成6年)に日本でも極めて珍しい地底親水空間「高森湧水トンネル公園」として再生させたのです。

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