米ゼロの極寒でなぜ大名に?松前藩が生き残った「独自交易」と激動の真相

米ゼロの極寒でなぜ大名に?松前藩が生き残った「独自交易」と激動の真相について知っておくべき 注意点を厳選して解説いたします。

江戸時代の支配体制の基本は、土地の石高に応じた軍役を課し、幕府が統制する「石高制」でした。しかし、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に拠点を置いた松前藩の領地では、寒冷な気候のため稲作が成立しません。表向きの石高は存在せず、制度上は紛れもない「無高大名」でした。

それにもかかわらず、松前藩が大名として認められた決定打は、慶長9年(1604年)に藩祖・松前慶広が徳川家康から下付された「黒印状」にあります。この黒印状によって、幕府は松前氏に対して「蝦夷地におけるアイヌとの交易独占権」を公認しました。他国の商人が松前藩の許可なく蝦夷地へ渡航して交易することを禁じ、違反者は厳罰に処すと定めたのです。

幕府にとって、未開とみなされた広大な蝦夷地の治安維持と北方警備を自前で行うのは極めてコストが高く、危険を伴うものでした。そこで、中世以来この地域に地歩を固めていた松前氏を「境目の守り手」として公認し、その引き換えとして独占的な交易利権を与えるという統治委託のディールが成立しました。米の代わりに「交易から生み出される莫大な富」を軍役の原資として幕府に認めさせたことこそ、松前藩が極寒の北辺で唯一無二の大名として君臨できた根本理由です。

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