なぜ東大卒エリート尾崎放哉は全てを捨てた?小豆島で迎えた孤独な最期の真相
尾崎放哉(本名:尾崎秀雄)は1885年(明治18年)1月20日、鳥取県鳥取市の上流階級の家庭に生まれました。幼少期から学業優秀で、官立第一高等学校(現在の一高)を経て、日本最高の知性が集う東京帝国大学法科大学政治学科へと進学。絵に描いたような明治のエリート街道を邁進していました。
大学卒業後の1909年、通信社を経て翌1910年には東洋生命保険(現・朝日生命などの系譜)に入社。契約課長や大阪支店次長代理といった要職を歴任し、高給を食む順風満帆な生活を送っていました。しかし、この輝かしいキャリアの裏側で、彼を破滅へと追いやる決定的な要因が静かに進行していたのです。
尾崎放哉のエリート転落の理由は、複合的な精神の歪みと「重度のアルコール依存」にありました。当時の同僚や知人の回顧録によると、放哉は極めて神経質でプライドが高く、その一方で尋常ではない劣等感を抱えていたとされます。酒癖の悪さは常軌を逸しており、酒宴で暴れる、上司や部下に暴言を吐く、無断欠勤を繰り返すなど、組織人としての規律を次々と破綻させていきました。
1919年、ついに会社を懲戒免職同然で退職。その後、知人の紹介で朝鮮半島へ渡り、朝鮮火災海上保険の支配人という高職を得るものの、そこでも酒乱と怠惰によりわずか半年余りで解雇されます。この時期、彼が自暴自棄となり、病的に酒をあおり続けた記録が当時の手紙に生々しく残されています。
生活が完全に崩壊するなかで直面したのが、妻・坂根馨との離婚の真相です。1911年に結婚した馨は、美貌と教養を兼ね備えた良妻でした。しかし、放哉の度重なる失職と酒乱、生活困窮に耐えかね、朝鮮からの帰国途上で実質的な別居状態となります。放哉自身、妻を深く愛していながらも、自己嫌悪と被害妄想から精神的に追い詰めてしまい、妻の親族からの強い懇願もあって最終的に離縁を受け入れざるを得ませんでした。愛する者を自らの手で失った喪失感は、その後の放哉の胸に癒えない傷として深く刻み込まれたのです。