サッカー日本代表ロゴの八咫烏はなぜ?三本足の意味と歴史を徹底解明

サッカー日本代表ロゴの八咫烏はなぜ?三本足の意味と歴史を徹底解明とはどのようなものなのか? 主要なファクトを丁寧に紐解いて紹介します。

八咫烏が日本サッカー協会(当時の大日本蹴球協会)のシンボルマークとして正式に制定されたのは、1931年(昭和6年)6月3日のことです。発足から10年を迎えた協会が公式旗とバッジを新設するにあたり、デザインを委嘱されたのが、当時新進気鋭の彫刻家として名を馳せていた日名子実三(ひなこ じつぞう)でした。

東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業し、後に帝展審査員も務めた名匠・日名子は、協会の創設メンバーであった漢文学者・内野台嶺(東京高等師範学校教授)らの助言を受けながら、古典的な荘厳さと現代的な躍動感を兼ね備えた意匠を完成させました。黄色い背景に、赤い日の丸(太陽=ボール)をしっかりと右足で押さえる漆黒の八咫烏の姿は、誕生から90年以上が経過した現在も根幹の骨格として引き継がれています。

ここで見逃せないのが、日本サッカーの草分け的存在である中村覚之助(なかむら かくのすけ)の存在です。和歌山県那智勝浦町出身の中村は、東京高等師範学校(現・筑波大学)で日本初となる「ア式蹴球部(サッカー部)」を創設し、1903年には日本で最初のサッカールールブックを翻訳・出版した「日本近代サッカーの父」とも呼ぶべき先駆者でした。

中村は若干28歳の若さでこの世を去りましたが、彼が生まれ育った紀州・熊野は、まさに八咫烏を主祭神の神使として崇める熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の総本山です。協会の重鎮たちが中村の遺徳を偲び、その不滅の功績に対する敬意と感謝の念を込めて熊野のシンボルである八咫烏を推薦したというエピソードは、日本サッカー界で最も美しく情熱的な原点のひとつとして語り継がれています。

この歴史的背景があるからこそ、歴代の日本代表監督やJFA役員、選手たちは、ワールドカップをはじめとする大一番の前に和歌山県田辺市の熊野本宮大社へ参拝に訪れ、必勝祈願を行うことが伝統儀礼となっているのです。

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