シベリア出兵はなぜ泥沼化した?日本だけ撤兵が遅れた衝撃の真相
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軍部の強硬派がユーラシア大陸へ熱い視線を注ぐ一方で、国内の民衆生活は破綻の危機に瀕していました。シベリア出兵の決定が正式に発表された1918年8月、日本列島は近代史上類を見ない社会パニック、すなわち米騒動の渦に飲み込まれることになります。
出兵計画が公になる前から、大阪や東京の穀物市場では「シベリアへの大規模派兵に伴い、軍が莫大な兵糧米(軍糧米)を買い占める」という情報が密かに駆け巡っていました。この機に乗じた巨大商社や米穀商による投機的な買い占め、売り惜しみが横行した結果、米価はわずか数カ月で3倍以上に急騰。富山県魚津の漁村で女性たちが米の県外移出阻止を求めて立ち上がった運動は、瞬く間に全国の主要都市へと飛び火し、焼き討ちや暴動へと発展しました。
全国で動員された治安維持のための兵力は、出兵部隊を上回る規模に及びました。民衆の怨嗟の矛先は、出兵を強行し物価対策を放置した寺内正毅内閣へと向かいます。「ビリケン内閣(非立憲内閣)」と揶揄された官僚軍人内閣は、国内の治安崩壊を抑えきれず、出兵開始からわずか1カ月余りの1918年9月に総辞職を余儀なくされました。後継として誕生したのが、「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本初の本格的政党内閣です。シベリア出兵は、皮肉にも日本国内の大正デモクラシーを急速に前進させる皮肉な触媒となったのです。