藤圭子の死因と転落死の真相|娘・宇多田ヒカルが明かした心の病と最期
藤圭子さんの壮絶な生き様を理解するうえで、その原点である経歴と生い立ちを見落とすことはできません。1951年、岩手県一関市に生まれ、北海道旭川市で育った阿部純子(本名)。父は浪曲師、母は盲目の浪曲三味線奏者という芸人一家に生まれ、幼少期から両親に連れられて東北・北海道の門付(かどづけ)や旅回りの興行に同行しました。貧困と隣り合わせの過酷な環境のなか、生活のために歌い始めたことが、彼女の唯一無二の歌声を育むことになります。
1969年、「新宿の女」で鮮烈なデビューを飾ると、ドスの利いたハスキーボイスと影のある美貌で瞬く間にスターダムへ駆け上がりました。「圭子の夢は夜ひらく」などのメガヒットを連発し、ファーストアルバム『新宿の女』とセカンドアルバム『女のブルース』は、連続42週にわたってオリコンアルバムチャート1位を独占するという、日本の音楽史上で前人未到の金字塔を樹立しました。
私生活では1971年、当時人気絶頂だった内山田洋とクール・ファイブのリードボーカル・前川清さんと結婚。昭和のビッグカップル誕生として日本中から祝福されましたが、多忙によるすれ違いと互いの若さゆえ、わずか1年後の1972年に離婚に至りました。しかし、離婚後も二人の間に憎しみはなく、前川さんは後年の訃報に際して「歌に関しては本物の天才だった。本当に哀しくてやりきれない」と沈痛な面持ちで語り、彼女の純粋さと脆さを誰よりも理解していたことを示しています。
1979年に突如として芸能界引退を宣言し、単身アメリカへ渡った藤圭子さん。その後、音楽プロデューサーの宇多田照實氏と出会い、1983年に光(宇多田ヒカル)さんを出産します。自らの天才的な歌唱力を受け継ぎ、1998年に『Automatic』で鮮烈なデビューを果たした娘の成功を喜ぶ一方で、自らの過去の栄光と病の影は、母娘の間に複雑な感情の溝を生み出していくことになりました。