美空ひばりと小林旭の結婚の真相!なぜ未入籍のまま2年で破局?
二人の破局を決定づけたのは、単なる生活リズムの違いや性格の不一致ではありませんでした。最大の要因は、二人の間に常に割り込んできた母・喜美枝の存在と、当時の興行界を裏で束ねていた山口組三代目組長・田岡一雄の介入でした。
同居生活が始まると、喜美枝は頻繁に二人の新居へ出入りし、ひばりを歌手活動へと連れ戻そうと画策しました。小林は「仕事をセーブし、家庭で料理を作り、静かに暮らしてほしい」と望みましたが、喜美枝は「ひばりから歌を取り上げたら死んでしまう」と頑なに拒絶。新居の中は常に母娘の緊密な絆と、孤立する小林という歪な構図が作られていきました。
膠着状態を打開するため、加藤家側が頼ったのが、ひばりの後見人として絶大な力を持っていた田岡一雄でした。1964年春、田岡は小林旭を神戸に呼び出し、サシで向き合いました。そこで田岡が小林に告げたのが、昭和芸能史に残る有名な言葉です。
「旭、すまないが別れてやってくれ。ひばりは皆のものだ。お前一人のものにしておくわけにはいかんのや」
巨大な興行網と国民の期待を背負った美空ひばりを、一人の男の妻として囲い込むことは許されない――田岡の言葉は、小林にとって抗いようのない「絶対的な引導」でした。小林はこの申し出を呑み、未練を残しながらも身を引くことを決意します。こうして1964年6月26日、結婚からわずか1年7ヶ月で記者会見が開かれ、二人の離婚(事実婚の解消)が電撃発表されました。
会見において、小林は「本人が望むなら歌を歌わせてやりたい。未練はいっぱいあるが、男らしく諦める」と語り、ひばり側も「自分が芸を捨てきれなかった」と涙を浮かべました。入籍していなかったため、役所での離婚手続きは存在せず、ただ会見一本で関係を精算するという異例の幕引きでした。破局後、小林はボストンバッグに私財2,000万円を詰め込み、マスコミの狂騒から逃れるように約1年間の海外放浪へ旅立ちました。