新選組総長・山南敬助はなぜ切腹したのか?脱走の真相と悲劇の全貌
山南敬助を語る上で、長年ファンの間でも論争となってきたのがその呼び名です。歴史ファンや研究者の間では、山南敬助の読み方として「さんなん」と「やまなみ」の双方が通用しています。
当時の記録を見ると、新選組の伍長・永倉新八が記した『浪士文久報国記事』や西村兼文の『新撰組始末記』などでは、仮名で「さんなん」と記される事例が散見されます。江戸時代から幕末にかけては、姓を有職読み(音読み)することが武士階級の間で広く行われていたため、隊内でも親しみを込めて「サンナンさん」と呼ばれていた可能性は十分にあります。一方で、出身地とされる陸奥国仙台藩の家系や近世文書の考証からは「やまなみ」が本来の名乗り(訓読み)であったとされ、現在では歴史学・メディア双方において「やまなみ」が標準的な呼称として定着しています。
その武歴に目を向けると、山南は新選組随一のインテリでありながら、当代屈指の剣豪でもありました。仙台藩出身とされる山南は江戸へ出て、幕末の三大道場の一つである玄武館(千葉周作)の門を叩き、北辰一刀流の腕前を極めて免許皆伝を得たと伝わります。さらに小野派一刀流も修めていたとされ、剣術の理論と実戦の双方に精通した第一級の遣い手でした。
文久年間に天然理心流の試衛館道場へ他流試合に訪れた際、近藤勇の剛剣に敗れ、その器量に惚れ込んで試衛館の食客となったという逸話は広く知られています。武骨な野人集団であった試衛館一派の中に、名門・北辰一刀流の正統な免許皆伝者であり、文学や兵法にも通じた山南が加わったことは、後の新選組結成に向けた組織的骨格を固める上で計り知れない価値をもたらしました。