『真田丸』真田昌幸の怪演と最期!草刈正雄が魅せた戦国最強の生存戦略

『真田丸』真田昌幸の怪演と最期!草刈正雄が魅せた戦国最強の生存戦略に関する深掘り解説を丁寧に解説いたします。

関ヶ原の合戦で西軍が敗北した後、昌幸と信繁は死罪を免れたものの、紀伊国・高野山山麓の九度山(現在の和歌山県九度山町)への配流・幽閉処分となりました。かつて天下の大名を翻弄した稀代の軍略家にとって、山深い寒村での10年以上に及ぶ幽閉生活は耐え難い屈辱と退屈の連続でした。

史料に残る昌幸の書状からは、松代藩主となった長男・信之に対して「薬を送ってほしい」「酒代を工面してほしい」と哀切な無心を繰り返す生々しい姿が確認できます。昌幸は常に赦免(赦し)を待ち望み、再び戦国の表舞台に立つ機会を狙っていましたが、徳川家康は最後まで昌幸の危険性を警戒し、赦免を認めることはありませんでした。

そして慶長16年6月4日(1611年7月13日)、昌幸は念願の赦免を果たすことなく、65歳で病没(死因は老衰および病気による衰弱死)しました。最期を迎える直前、昌幸は信繁に対し、徳川軍と戦う際の策戦や大坂城の防御法を授けたと伝えられています。この遺志が、後の「大坂の陣」における信繁の獅子奮迅の活躍と、出城「真田丸」の築城へと直接繋がっていくのです。

ドラマ『真田丸』の第38回「昌幸」において、白髪交じりとなりながらも床の中で軍配を握り締め、静かに息を引き取ったシーンの放送後、SNS上では「昌幸ロス」というワードがトレンドを席巻しました。視聴率速報やネットニュースでも「偉大な父の退場」が大きく報じられ、一人の武将の死がこれほど視聴者に深い喪失感を与えた例は、大河ドラマの歴史上でも極めて異例の現象でした。

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