織田信長の妻・濃姫の真相に迫る!子供の有無と側室たちの実像
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濃姫に関する最大のミステリーは、輿入れから数年を経た後、同時代の公的記録からその名が忽然と消えてしまう点にあります。これによって生じた「なぜ語られないのか」という疑問に対し、歴史研究者や作家の間で複数の仮説が唱えられてきました。
かつては「父・斎藤道三が弘治2年(1556年)の長良川の戦いで戦死したため、婚姻同盟の価値が失われて離縁された」あるいは「若くして病没した」とする早逝説が通説とされていました。さらに、歴史ドラマなどで定番となっている「天正10年(1582年)の本能寺の変において、信長とともに薙刀を手に奮戦して討死した」という描写も広く知られています。
しかし、本能寺で濃姫が戦死したという描写は、江戸時代中期以降に書かれた『武将感状記』などの軍記物語や創作物に見られるものであり、当時の一次史料にそれを裏付ける記述はありません。
現在、戦国史研究の現場で極めて有力視されているのが濃姫の本能寺の変生存説です。その論拠となっているのが以下の史料データです。
織田家の菩提寺である京都・大徳寺総見院の記録や、織田家の女性たちに与えられた所領記録(『織田信雄分限帳』)には、「安土殿」と呼ばれる身分の高い女性が登場します。この安土殿は天正年間から信長没後にかけて手厚い化粧料(領地)を与えられており、羽柴秀吉からも織田家の正室として高い敬意を払われていました。
『総見院殿追善記』などの記録を精査すると、安土殿は慶長17年(1612年)7月9日に78歳前後で大往生を遂げたと記されています。逆算すると生年は天文4年(1535年)前後となり、斎藤道三の娘である濃姫の生没年と完璧に一致します。つまり、濃姫は本能寺の変を生き延び、秀吉や徳川家康の時代まで織田家の名誉ある正室として静かに余生を過ごしていた可能性が極めて高いのです。