竹島に対する世界の認識とは?米国が中立を貫く理由とリアンクール岩礁の真相
竹島問題の経緯をわかりやすく把握するには、近代国際法に基づく領土編入の手続きと、第二次世界大戦後の混乱期に生じた軍事行動を時系列で追う必要があります。日本政府は江戸時代初期からアシカ猟や漁業の拠点として島を利用していた記録を挙げつつ、近代法秩序においては1905年1月28日の閣議決定、および同年2月22日の「島根県告示第40号」により、他国に占有されていない無主地を先占(無主地先占)の法理に基づいて編入したと主張しています。
これに対し、韓国側は古文書の記述(『新増東国輿地勝覧』や『三國史記』など)をもとに、新羅時代の512年に伊飡(いさん)異斯夫(いさぶ)が于山国を服属させて以来、一貫して自国領であったと主張しています。しかし、これらの古文書に登場する「于山島」が現在の竹島を指しているのか、それとも鬱陵島近傍の小島(竹嶼など)を指しているのかについては、歴史地理学者の間でも見解が鋭く分かれています。
では、なぜ韓国による実効支配が成立したのでしょうか。発端は1952年1月18日、サンフランシスコ平和条約の発効直前に韓国の李承晩大統領が突如として公海上に一方的な境界線を引いた「李承晩ライン(平和線)宣言」にあります。国際法上の根拠を欠くこの海洋境界線の内側に竹島を強引に取り込み、境界線を越境した日本漁船を次々に拿捕しました。
海上保安庁の資料によると、李承晩ラインの撤廃までに拿捕された日本漁船は328隻、抑留された日本人漁民は3,929人、死傷者は44人にのぼります。1953年には第一大邦丸事件などの痛ましい拿捕銃撃事件が発生し、翌1954年には韓国が沿岸警備隊の常駐を開始しました。自衛隊の海外派遣能力や法整備が未熟だった戦後日本の隙を突く形で、恒久的な警備艇発着場や灯台、宿舎などの施設が建設され、事実上の軍事管理下に置かれるに至ったのです。